サンフランシスコ講和会議で、ジャヤワルデネ 元スリランカ大統領がブッダの言葉を引用し日本を救うことになった!というエピソードを知っていますか?
日本語ガイドであるスリランカ人の夫からその話を聞いて初めて知りました。
皆さんにも知ってほしいと思いこの記事を書いています。
ジャヤワルデネ 元スリランカ大統領が引用したブッダの言葉とは?日本を救ったってどういうこと?サンフランシスコ講和会議でのジャヤワルデネ元スリランカ大統領のエピソードを紹介します。
Contents
サンフランシスコ講和会議とは?なにが話し合われた?

そもそも、サンフランシスコ講和会議ってなに?
学校の授業で習ったかもしれないけど。。。よく覚えてないという人のために説明します。
サンフランシスコ講和会議
サンフランシスコ講和会議とは、1951年9月 日本とアメリカなどの連合国との戦争状態を終わらせるために話し合われた国際会議のこと。この時の日本代表は吉田茂首相でした。
話し合いの結果、サンフランシスコ平和(講和)条約が結ばれることになり、日本の主権回復が認められることになったのです。
会議には、旧ソ連やポーランド、チェコスロバキアなどの共産圏の国々と日本を含む52か国が参加しています。
第二次世界大戦が終わったのは1945年8月15日。日本が戦争に負けた日ですね。
戦争が終わる前、1945年4月からサンフランシスコ会議が開かれ、戦争終わりに向けての話し合いは行われていました。この会議とは別なので注意です。
サンフランシスコ講和会議では、戦後の領土問題や日本への賠償請求などについて話し合われ、朝鮮の独立、台湾や千島列島、南樺太などの権利の放棄、沖縄、小笠原諸島をアメリカの信託統治のもとに置くことなどが決まっています。
この会議によって結ばれた約束がサンフランシスコ平和(講和)条約です。全7章27条の主な内容は以下です。
第一章 平和
日本と各連合国との戦争状態を終了させ、日本国民の主権を回復し、独立することが認められました。
第二章 領域
戦後の日本の領域を決める条約です。
第三章 安全
個別的・集団的自衛権を持ち、集団安全保障条約に参加することが可能とされています。
第五章 請求権および財産
連合国は日本に対する役務を除く賠償の請求権を放棄しました。これは寛大な処置がされたといわれています。
サンフランシスコ講和会議へ参加したのは52か国ですが、条約内容に納得できない国もあり、サンフランシスコ平和(講和)条約に署名したのは49か国でした。
この内容から、敗戦国である日本が他国の支配下にならず日本であり続けられるということが言えます。
アジア諸国の中で、植民地化を免れたのは珍しいことです。
多くの国は「独立記念日」ですが、日本の場合「建国記念の日」となります。
ちなみに、スリランカはポルトガル・オランダ・イギリスの植民地でした。そのため、各国の文化や言葉が残っています。街並みにヨーロッパの雰囲気が残っているのは、植民地時代の名残ですね。
サンフランシスコ講和会議でジャヤワルデネ元スリランカ大統領が日本を救ったブッダの言葉とは?

終戦後、約6年GHQ(連合国総司令部)によって占領下にあった日本ですが、独立国として認められたことは大きいです。
サンフランシスコ講和会議で話し合われる前より、日本の分割統治の要求が出ていました。これは、日本を4つに分け、旧ソ連・アメリカ・中華民国・イギリスが統治する計画です。
戦勝国が「日本に平和や自由を与えることは許されない」と日本の主権を制限するためです。
戦争を繰り返してきた日本も、かつては他国にしていたこと。立場が違えば日本も連合国のようにしていたかもしれません。
ジャヤワルデネ元スリランカ大統領の演説内容
日本に制裁をという連合国に対し、反対意見の演説をしたのがジャヤワルデネ元スリランカ大統領です。簡単にすると以下のような内容です。
私たちが戦争で受けた天然ゴムなどの被害は、日本に賠償請求する権利があるかもしれません。
しかし、我が国(当時セイロン、現スリランカ)は請求するつもりはありません。
ブッダの「憎しみは憎しみによってやまず、ただ愛によってやむ」という言葉を信じているからです。
会議へ出席する途中に日本を訪問し、インドからアジア各国に伝えられた仏教の共通の文化があるのを見つけました。日本の人たちからは、今も仏教の教えに従っていこうとしている気持ちを感じました。
日本が立ち直る機会を与えるべきです。
この演説が終わったとき、会場は賞賛の嵐であったと「サンフランシスコ・ニュース」は報じています。
実際はどうだったかわかりませんが、国際会議で日本をフォローする演説をしてくれたことは確かです。
「憎しみによってやまず、ただ愛によってやむ」
人は憎しみによっては憎しみを超えられない。愛によってのみ憎しみを超えられる。
被害にあった国が、その相手国に対して国際会議の場で救いの演説をするということは、なかなかできないことではないですか?この演説がすべてではないですが、日本を救ってくれたというのはおおげさな話ではないといえます。
会議に出席していた吉田茂首相は、「スリランカへの恩を、日本は未来永劫伝えなければならない。」と言っています。
そのわりに知られていないので、こういう過去があったということを一人でも多くの人に知ってもらいたいです。
ジャヤワルデネ元スリランカ大統領への感謝を表す石碑が、鎌倉にある鎌倉大仏殿高徳院にあります。
石碑は鎌倉だけでなく、八王子・雲龍寺、信州長野・善光寺にもあるそうです。お近くの方は行ってみて下さい。
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サンフランシスコ講和会議で日本を救ったジャヤワルデネ元スリランカ大統領ってどんな人?
1951年 サンフランシスコ講和会議で日本の自由と独立を支持してくれた演説をしてくれたジャヤワルデネ元スリランカ大統領。当時は若干44歳。まだ大統領ではなく、セイロン(現スリランカ)代表として出席しました。のち、スリランカ第二代大統領(大統領制では初)となりました。
親日家のジャヤワルデネ元スリランカ大統領
親日家としてしられていて、たびたび訪日しています。政界引退後も日本を訪れ、日本とスリランカの交流に尽力したそうです。
広島の平和記念資料館へ訪れていて、その際に記帳した筆跡が残っています。
亡くなる5年前に訪れた際に、平和を願う言葉が記されています。
また、亡くなるときの遺言に以下の言葉があります。
「これからもスリランカと日本の発展を見守りたいから、一つの目をスリランカに。もう一つの目を日本へおくりたい。」
遺言どおり、ひとつは日本人に角膜が移植されています。
スリランカの首都はもともとコロンボでしたが、かつて王国のあったコッテに遷都されています。かつてコッテはジャヤワルダナと呼ばれていたことに加え、大統領の名前も絡めて
スリジャヤワルダナプラコッテと改称され遷都されました。
スリジャヤワルダナプラコッテの意味は、「輝ける勝利をもたらす町・コッテ」
コロンボには、ジャヤワルデネ元スリランカ大統領が結婚するまで過ごしていた家が現在資料館となっています。観光の際に訪れてみてはいかがですか?
また、スリランカの国会議事堂は日本の会社が建てています。設計は世界的に有名なスリランカ人建築家ジェフリーバワさんです。
国会議事堂はディヤワンナ湖に囲まれていますが、その周りを走る道は、日本・スリランカ友情道という名前がついています。グーグルマップを参考にしてみて下さい。
「Japan Srilanka Friendship Rd」となってます。
スリランカが親日国ということがよくわかります。ジャヤワルデネ元スリランカ大統領がきっかけを作ってくれたスリランカと日本の友情。
まとめ
ジャヤワルデネ元スリランカ大統領がサンフランシスコ講和会議で演説したブッタの言葉は以下。
「憎しみによってやまず、ただ愛によってやむ」
人は憎しみによっては憎しみを超えられない。愛によってのみ憎しみを超えられる。
この演説が賞賛され、日本を救うきっかけになった可能性がある。
スリランカは親日国であり、日本とスリランカに共通するところがある。
このようにスリランカには日本に馴染み深い場所が数多くあります。実際に現地で見てみたいなという方は是非ご連絡下さい。
日本語でツアーガイドできますので、詳細を知りたい方は気軽にメッセージを下さい。インスタ・ツイッター経由が返信しやすいです。